「国家」は人を殺せるか

2018年7月、オウム真理教、教祖(元代表)・麻原彰晃死刑囚、ほかオウム真理教幹部など7名の死刑が執行されました。

(一連のオウム真理教事件に関して各メディアでまとめられています。それらをご覧ください。)


戦後最大の死刑執行、また先進国の多くでは死刑廃止がなされている(日米のみ、米は州による)ため、海外メディアでも広く報道されました。その多くは「批判」で死刑廃止論者の主張でした。


細かいことを申し上げるまえに、わたしの立場をはっきりさせておきましょう。


「死刑制度は廃止されるべき」

なぜなら、

1)凶悪犯罪を抑制するという確たる証拠がない、

2)どれだけ発達した司法制度においても、冤罪の一切の可能性を否定できない、

3)国家の暴走を容認(または推進する)することになる、(全国民が殺人に加担していることになる)


では、それぞれを検証してきましょう。


1)凶悪犯罪を抑制するか否か

死刑制度によって、殺人および強姦などの凶悪犯罪の発生が抑制されたという検証・分析はこれまで出てきていません。

国連からの委託により、「死刑と殺人発生率の関係」に関する研究が、たびたび実施されています。最新の調査(2002年)では「死刑が終身刑よりも大きな抑止力を持つことを科学的に裏付ける研究はない。そのような裏付けが近々得られる可能性はない。抑止力仮説を積極的に支持する証拠は見つかっていない」との結論が出されています。

実際にフランス(1981年廃止)では、廃止前後で、殺人発生率に大きな変化はありません。

よく考えてみれば、「人を殺そう」と考えたときはに、死刑のことなど考えていないのかもしれません。


2)冤罪の可能性

だれが犯罪を犯し、だれが判断し、だれが死刑を実行するのでしょうか。

どれもこれも「人間」であることは容易に理解できます。

司法においても同様にいえます。「人間」であるために判断を誤ったり、感情に揺さぶられる可能性があります。

実に、死刑を言い渡されたのちに「無実」だったことが判明したり、真犯人が見つかったりした事例は多くあります。戦後日本においても4件あります。


3)国家の暴走

なぜ1人の人間が他の人間を殺すと、「殺人」になるのに、国家が人間を殺すことが許されるのでしょうか。


国家は「主権を持つ国民のあつまり」にすぎません。国家はその権利の1部を主権者から譲り受け、3つの働きをします。

「1)立法、2)行法(行政)、3)司法」

その中心にある「法」は環境を生き抜くために国民の活動を抑制したり、または推奨したりするのです。


つまり国家が権力をもつのは、国民が委任するからであり、その権力の最大の様式が「暴力」です。

さらに、再起不能である「死刑」は「究極の暴力」といえます。


ケチスドイツでは、ヒトラーが統治した1939年から44年までのたった5年間で、4万人の死刑が執行されました。まさに国家の暴走です。


また国民が主権者であるのであれば、また国家を支持してる(していなくても)のであれば「国民は死刑に加担している」わけです。


シンプルにいえば、1人だと殺人で、多くが集まれば殺人ではない。という論理は国家のおいても代入不能です。

民意を司法にもちこむと国家は崩壊します。


以上を理由として、私は「死刑廃止論者」です。