文化はいかにして変わるのか -文化変容と硬直する日本社会  

 新しいグローバル文化の特徴のひとつは中産階級の拡大である。その背景にはフランスの社会学者P・ブルデュー(1930-2002)によって提唱された文化資本(Cultural Capital)という考え方がある。つまり各家庭が持つ文化的能力や文化的財が合わさったものであり,①客体化された文化資本 ②制度化された文化資本 ③身体化された文化資本 と分類されそれぞれ,蔵書やディスクのような文化ストック,学歴のような制度的に正当化された資格,話し方や振る舞い方などのハビトゥス文化の三者で代表させる。ブルデューはそれによって階層付けられる(文化階層)とした上で,それが子孫に対して大きく作用することを文化的再生産と呼んだ。私は日本における外国人労働者(またはその2世代)の日本社会(経済)における文化資本による文化階層と2世代以上にわたる文化的再生産を考察した。

文化を通して集団を区別していることは周知の事実である。つまり言語や専門分野,好むスポーツ,芸術的趣味,衣食住のライフスタイルなどである。しかしそれが見えにくいものになっていることも事実である。教育を例に挙げれば,1870年におけるフランスの男子労働者の50%,女子は60%が識字能力を持たなかった。現代は明らかに異なっていて,総中等教育化の波に乗れば「機会」の壁は取り除かれ,階層差は薄れてきているように見える。が,厳然たる事実は,高等教育進学,専門・管理職への進出,美術展コンサートの享受など,差があることは明らかである。つまり階層差は急速に薄れてきていると同時に,また文化によって覆い隠されている,これは文化的不平等による社会的不平等の正当化を意味している。

日本社会ではどうか。わかりやすい例が外国人労働者である。現代日本では,増して民族的出自を異にする人々が同じ空間に生きるようになった。旧植民地出身者とその子孫である在日韓国・朝鮮人のほか,難民・ニューカマー外国人労働者が,それぞれ社会の中にそれぞれの位置を占めるようになった。ブルデューの言語場という見方を導入すれば,日本語が正統とされる日本では,朝鮮語タガログ語(英語は例外か?)を母国語とする人々は明らかに劣位の言語資本所有者である。また更に「宗教観」に世界的に見て特殊な感覚を持つ日本人にとってヒジャブを着用した女性は今も異質な存在である。しかし彼らは参上した受け入れ社会において,生活・行動パターンを修正するようになる。つまり適応するのである。彼らはたいてい故郷の行動様式や人間関係間を携えてやってくるのであり,また「日本の生活はこんなものだ」という知識も持ちながら来日するわけで,全く予備観念を持たないわけではないはずである。よって,彼らは無意識のうちに文化変容を経ているだろう。他方そこには難しさも残る。変化・変容・変換が不能なものである。第一に出身地の問題。母国での学歴,その他伝統主義的な文化の数々である。また外国人労働者の2世は全く新しい価値観を持つ。つまり家族という文化的環境において少なからずハンディを負っていることである。更に母国語への疑問である。両親間ではベトナム語を話すが,子供に質問すると日本語で答えが返ってくる。という現象が起こりうる。ベトナム語は理解しているものの話そうとしないのである。このような場合,いったいどちらが母語なのか,2世は微妙な関係に置かれている。更にこれが家族が文化的環境において負の働きをしていることを裏付けている。

 今我々に問われているのは「欧米人」「アジア人」といったカテゴリー化,またステレオタイプともいうべき「外人」の排他的カテゴリー化などの是正である。それを克服するためには,人々が対象についてより分化した,個を識別する具体的な認識を持つことが必要となる。「外人」といった認識に加え,具体的な国籍・民族・職業など,更に個人の即した個体の認識を特徴を識別するように努めるべきである。グローバル化の中の現代社会は「マイノリティ」を持つ。日本社会(経済)においても外国人労働者の増大とその家族について,日本社会における位置,その社会的参加の可能性を議論しなければならない。彼らの負っている「文化的不利」を理解すべきである。その上で,この文化的不利を社会的不利ないし社会的不平等の正当化にしてはならない。