【めちゃ雑感】精神的な自立とその創造

いつも講演会で問いかける質問がある。それは「りんごを隣のひとに分け与えるのは正しいか」というものだ。ほとんどのひとは「正しい」という。
そのうえで、「その隣のひとはりんごを隠し持っていた場合」 「 他人が「このひとはりんごを持っていない」と公表して、りんごをかき集めることができる可能性」「その隣のひとの怠慢でりんごを手に入らなかった場合 」を提示する。そうするとみなさん、考え込む。

さらに、社会学者の見田先生は、著書で例を上げつつ「収入が増えることで新たに不幸になる生活もある」としている。つまり、これまで自給自足と物々交換で成り立っていた生活に、カネを導入すると、以前より質素な食事になることもある。ということだ。この点はおおく議論されているが、簡単には結論が出せない。

加えて、貧困のレヴェルを測るものさしは、 経済面と精神面があると言いつづけている。 OECDによる幸福度調査の項目のひとつは「精神的な余裕」だ。わたしは、さらにこの「余裕」の要因は2つあるとおもっている。つまり外的な要因と内的な要因だ。それは「精神的な自立」かどうかであって、自分で余裕を創り上げるか、他人に与えられるか、の違いである。この点は、外務省や国連機関にいわせれば、いまの時代は「協働」であるから、精神的な自立は達成できると論理を立てている。しかし「支援は支援」である、という現地の雰囲気はずっとある。これは論理では乗り越えられない点で、国際協力のパラドックスである。

こういう点において、どんな状況を貧困と一概には言えないし、そのアプローチの最適解は出てこない。支援者の独りよがりな行動の押しつけになってしまっていたり、新しいサービスを導入しても、腐ってなくなっていくことすらある。ここが難しいのだ。

独りよがりな行動の押しつけは、まさにネオオリエンタリズムである。19世紀、欧州は地球のいたるところを支配下においていったが、「あの非文明国は、あの産業だけしておけばいい」といわれた、地域社会は、そのように行動していった。表象の設定である。これが、いま、国際協力の場においておこっているのではないか。とわたしは提言している。

聞いた話だが、あるNGOが報告書の表紙の写真を撮るために、わざと子どもに破けたシャツを着せ、顔を土で汚した、と、さらに、札束を配ってひとを集め、大勢のひとが笑顔になる写真を撮ったと。「インチキだ」と思うかもしれないが、実に合理的なやり方である。つまり、NGOとしては、これを武器に寄付を集められるし、現地としては、さらなる支援が期待できる。Win-Winな戦術といえる。

これは、つまり「貧困地域は貧困であるべき」という雰囲気である。ケニアを例に上げると、医療・保健の分野の予算は減っている。国際社会からのカネが入るからだ。スラムではプロジェクトが乱立、コントロールがなされていない。「貧困はそのままにしておこう」と思ってもなんら不思議ではない。

ある会議で「国際協力は資本主義社会の負の側面に似ている。つまり、個々の手続きは問題ないが、全体として間違っている」と発言した。(マルクスによると、資本主義社会では、個々の手続きは等価交換がなされているが、労働力の需要と供給によって、労働者はいつまでも労働者であり、資本家はさらに富をもつようになる。としている)NGO側からはめちゃめちゃに叩かれた。その会議には呼ばれなくなった。

現代人は目的を振り返るのが、不得意だ。ナチスは、いかに野蛮なことでも、当時のインテリは「いかに効率的にユダヤ人を殺すか」を追求した。「なぜ、ユダヤ人を殺すのか」については追求しなかった。(フランクフルト学派による議論)

わたしが重要視しているのは、あくまで公正な取扱と平等な機会提供であって、監視や管理ではない。ましてや、収入増がなされるが、その余剰分を自らの他事業に投資させる(ほとんど強制的に)モデルにはまったく賛同できない。それは強制的な生活スタイルの設定であって、支援でもソーシャルグッドでもなんでもない。もちろん、魅力的なプロダクトを紹介するのはいいが 、自発的に選択させなければならない。それが精神的な自立になると信じて疑わない。それがなければ、ただ傲慢な押し付けである 。

しらいし