ボランティアとはなにか

 
東京2020に向けて、ボランティアを数十万人単位で募集しているときいた。
私自身、ボランティア活動をしてきて、現地のボランティアを募りともに活動した。
後には、仕事として80名のボランティアを指揮し、100名の追加ボランティアメンバーを選定した。
ケニアの農村部およびスラム街にすむ住民を対象としていたため、手当を与えるべきか否か、関係者と深く議論した。その結論は以下の通りだ
 
私がボランティアとして主導した活動については手当を一切与えなかった。決して潤沢な資金はなかったし、なによりもボランティア志願者のやる気がものすごかった。つまり、活動の意図が明確であったし、成果が目に見えた。さらには彼らの背景状況も大きく関係していたようにおもえる。
 
彼らにきくと、1)この活動に関われるだけで幸せ。2)やりがいを感じている。3)個人ではできないことに関われている。といわれた。
 
仕事として関わった事案については、はじめに少額の手当を与え、のちに無くすという計画に落ち着いた。つまり、活動を通じてボランティア精神を育もうとしたのだ。これは失敗に終わっている。
ボランティア志願者のなかには、これを仕事として捉える人もおおかった。さらに、手当が少ないことを理由にして、仕事をせず、歯向かうこともあった。
 
彼らにきくと、1)この活動に時間をつかっている。手当の請求は正当である。2)活動に必要な費用の補填にすぎず(ときに足らない)報酬になっていない。
 
このときの問題は、活動の意義や目的を明確に共有していなかったことにある。または、活動の意義が無意味であったか、彼らにとって遠い問題であり当事者であるという認識が薄かったからか、のどちらかであろう。
 
 
ーーー
 
翻って、東京2020にもどる。東京五輪に関わることが、ボランティア志願者にとってどのような意義をもつのか、関われることがどれだけ魅力的であるか。また、投じた時間の価値を満たすことができるのか。考えることが必要である。
 
私はボランティアは無報酬であるべきだと思っているし、東京2020には魅力を感じている。
また、外部からチャチャを入れるのはわからない。良いではないか。それでいいと思える人が募集人数以上いるのであれば。もし足りなければ、何かしらの手当を与えて人員を集めるだろう。
この議論に「べき論」は通用しない。と思う。
 
が、募集をかける側は、魅力を発信し続ける必要があるとも、おもう。