「平等な機会」と「公正な取扱」 社会に立ち込める「空気」

世界の5人に1人が貧困の中で生活しています。加えて、これまでに膨大なヒト・モノ・カネが支援を求める地域につぎ込まれているにも関わらず、その貧困がなくなっていないという悲劇があります。

 

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支援する側と支援される側という区別がはっきり見えています。オリエンタリズムは狭義では、東洋学という意味ですが、文化学では、「ネオオリエンタリズム」として西洋による東洋の「表象の設定」を意味します。

 

19世紀後半ヨーロッパ諸国は、東洋について「非文明国」として認識して植民地化していきました。植民地支配の正当化のため、「文明国」と「非文明国」という明確な区分が必要だったのです。「東洋はこういうものである」と言われた東洋諸国は「こうあるだろう」とそのように振舞い始めたと言われています。他にも米国によるアフリカン・アメリカンの表象設定や、ナチスドイツによるユダヤ人の表象設定など他にも例があります。

 

「支援国」と「被支援国」はどうでしょうか。そのような関係性になっていないと信じています。「支援国からの上から目線」は「被支援国からの軽蔑」につながります。さらには「貧困地域は貧困であるべき」という「空気」につながります。

 

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現地での活動は「大きな目標を実現するために」するのではなく常に「目の前の命を救うため」であって、非常にシンプルです。「大きな目標を達成するために」という視点は、その目標を設定した支援国からの評価を求めるだけの活動につながる可能性があります。

 

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なぜ結核の薬が本当に必要とする人たちのもとに届かないのか、マラリア予防の蚊帳が魚を取るために使われてしまうのか。貧困について考える人たちの善意が届かないのか。

 

我々は素直に振り返り「目の前の子どもを救える」支援を再考しなければなりません。決して大きな目標の達成が全て正しいわけではなく、また資金拠出だけが貢献ではありません。 

 

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先ほどの「空気」という強大な力が社会を覆っている気がします。文化学で言うところの、ネオオリエンタリズム的、もしくは権力支配的に「空気」を作りだし、それによってコントロールされている気がしてなりません。日大アメフトの問題もそうであるし、企業内でもあります。

我々は「途上国」「被支援国」に対して、そのような「空気」を作りだしてしまっていませんか。

 

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「空気」というものは見えませんし、逆に「こうであろう」と考えてしまうと、もっと違う「空気」を生じさせます。現実からかけ離れた「空気」が(指示義、共示義を超えて)人々を理解させる可能性が大いにあります。それを跳ね除けて、現実の理解を試みることが「国際協力」をおこなう上で重要だと考えています。

 

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それを現実と理解できた(なんとか1部だけでも)ときには「公正」な取り扱いが重要だと認識できます。つまり人それぞれにあった取り扱いです。さらにそれができたときには「傲慢な支援」の輪から抜け出せます。(そのはずです)

 

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「平等」と「公正」の違いについて考えることがあります。「国際協力」においては「平等な機会づくり」と「公正な取り扱い」が非常に重要で、「国際協力」を名のもとに、また2つの言葉の違いを認識せず「支援国」と「被支援国」との「平等な取り扱い」によって「傲慢な支援」になってしまっていませんか。

 

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少し立ち止まって、ゆっくりと考える必要があります。我々の文明の発展が全て正しかったのか、また発展させることが正しいのか、間違い(間違っている可能性がある)を「途上国」「被支援国」に押しつけてしまっていませんか。

 

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ずっと考えていますが(考えるシリーズVol3【貧困って?】http://resultsjp.sblo.jp/article/176094903.html) /  旅便りvol5@ケニア キスム http://resultsjp.sblo.jp/article/177090766.html ) 「貧困」ってなんでしょうか、「幸せな生活」ってなんでしょうか。

 

私もさまざまな角度から検討してみます。

ぜひ、ご意見ください。( riku.s@zoho.com

 

 

しらいし