夢と現実のちがいについて 人生の「豊かさ」

「夢は夢やん」「いまは現実やん」

我々は疑わず信じますが、古代ギリシャから続く哲学の分野においては大問題だそうだ。

デカルトが問題提議した「夢と現実のちがいを説明せよ」「説明はむずかしい、つまり夢と現実に差はない」という問と仮説にたいし、ショーペンハウアーはこう答えます。

ひとこと「ながれをみよ」

もし夢か現実が不明な状態で、「リンゴを3つもっている」としよう、この状態が夢か現実かという問は非常にむずかしい。

当人が「現実」だといっても、「夢にいるあいだは、これが夢だとは気づかない」「これが現実だと感じる夢にいるのかもしれない」と解決することはなくなってしまう。

それにたいし、ショーペンハウアーは「ながれをみよ」とします。
つまり、「リンゴを3つもっている」「リンゴを1つかう」「リンゴを4つもっている」
という3つの事情を並べたときに「それは現実なのだ」と認識されるとしている。

彼は「夢と現実の差」について「根拠律」が達成されるかとしています。

その「根拠律」について説明します。つまり「関係の原理」
ショーペンハウアーは「根拠律にもとづいた関係のもとにあれば、その体験を現実として良い」としました。
それは、
①論理 ②時間・空間 ③因果 ④目的・手段

脳のシワがある人は気づく。これがなににおいても重要な事項で、文章を書くときは「根拠律」にもとづき、書くと良い。

これが崩れるとそれが「夢」になるのだ。

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ショーペンハウアーはその一歩先をいいます。

「もっち広い視野をもつと、人生は夢なのかもしれない」という。

つまり、我々の人生をひとつのシーンとして見たとき、パッと次の瞬間、エジプトにいたら、根拠律が崩れる。

だから、死ぬ間際、「人生は夢だった」とおもうのだ。死んだあとどこにいるか、なにをするのか、わからないからだ。

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これがペシニズム(悲観主義)のスタートだ。
「人生は虚しく、儚いものだ」「人生はあっというまの夢だ」とおもうとき、もしくはそれを理解したとき、本当の意味で「楽観主義」になれる。※

この楽観性は「浅はかな悲観」「自己否定」をはねのけ、人生を豊かにする。

長くなりそうなので、この「ペシニズム(悲観主義)」からの脱却については、気が向いたときにかきます。

ただ、ひとこと「自分がペシニズムだ」と認識すると、肩にある重荷がなくなり、楽になります。それが理論でなくなったかというとちがいます。経験(ここでいう経験は身体としてではなく、心に動きで、泣いたり笑ったり)による感性の成長による、自己と社会との関係性の変化によるものでしょう。

ぜひ、がんばりましょう。

しらいし