「できることの少なさにたいする絶望」と「現実を直視し理想を語る情熱」について

そもそもこの世は3つのものが相互に関係をもちながら、良くか悪くか流れている、それだけのものだろうと感じている。その3つのものとは、カネ、ヒト、モノだ。

 

 

カネ(経済)

経済とは「物事がうまく回るようなシステム」のことである。例えば何かを生み出そうとヒトが集まっている状態は経済システムといえる。企業はまさに経済システムであるし、商店街も、大学生のサークルに至るまで、組織の名前が違っていても本質は変わらず経済システムといえるだろう。が、地球上のほぼすべてのヒトは市場経済の影響から逃れることは難しい。経済システムをうまく回す潤滑剤は「カネ」であり、「経済=カネ」といってもいいだろう。

 

ヒト(感情)

 

共感、嫉妬、愛情。これらによってしばしばヒトは「物事がうまく回るようなシステム」をこえた、言動をすることがある。ヒトは、時としてほかのだれかを愛して、自分を犠牲にしてでも献身したいと考える生き物であり、時としてほかのだれかに嫉妬して、自分を騙してでもほかのだれかを打ち負かしたいと考える生き物なのだろう。

 

モノ(技術)

 

ヒトはカネを使ってモノを買ったり、モノを使ってカネを生み出したりする。武器をつかってヒトを打ち負かすのも、コンピュータをつかってヒトを共感させるのも、「物事がうまく回るようなシステム」では、ほとんどの場合モノが媒体されている。

 

以上の3つによって、なにかの流れを生み出している。「ただそれだけ」

これらの流れを生み出すメカニズムは、それぞれを個々人が変えられるだけの自由度を持ち合わせておらず、理解しようとしたって、カネは必要だし、ヒトの協力が必要だし、この文章はコンピュータで打っている。

 

物事の悪は、だれか一定の個人がわるい場合よりも、なにかこのメカニズムに欠点があったことによる弊害だろう。この世のメカニズムに取り込まれた歴史であったり、政治・社会の慣習が、カネかヒト、モノのなかで「無理」が生まれると、問題化される。

 

と、いうことは、個々人ができることは絶望するほど小さい。このメカニズムが理解できても、そのメカニズムの内部にいるからには、変えることはできない。

 

例えば、いま生きている世界が夢でないことは証明できない。「現実だ」とおもっても『「現実だ」とおもった夢』に生きているのかもしれない。魚は川を上っていくことができるが、川の流れを変えることはできない。川上から川下に水が流れるという地球上の重力による作用は少なくともここ46億年ほどは変わっていない。

 

頭のなかは無限で自由だ。しかし身体は有限で不自由だ。この世はこのようなメカニズムによって「したいことができない」ことが多すぎる。

 

 

自然状態で不条理や困難を乗りこえるために、ヒトは知恵を絞ってきた。カネは物々交換から貨幣になり、モノは石器からコンピュータになった。ヒトによる統治である政治は封建制から民主主義になった。

 

しかし自然の摂理はいまだかつて変わったことはない。目に見えやすいもので「弱肉強食」がある。弱いものは強いものに食べられる、というものでかつての身分制度(ヒト)が、最近はカネに変わったが、いまでも数字の書かれた紙の枚数、預金残高の数字が大きいものが、小さいものをコキ使っている。

 

人生はまったく公平ではないし、それに慣れてしまった現代人は多くいる。現実を見たうえで理想を語るのはひどく困難で、見栄えが悪い。現実を見て理想を一切語らない「空虚感を抱えたイエスマン」は現実を受け入れることが「スマート」で「クール」であると思い込んでいる。「いまのメカニズムに最適化するのは簡単だ」とニヤニヤしてる。彼らにとって「メカニズムがおかしい」と大声をあげるヒトビトは気味悪く、カネやモノの無駄だと考えている。

一方、現実をみず理想を語るのはしごく簡単で、現状を批判すればいい。

 

が、現実をみたうえで「まだほかの可能性があるかもしれない」と考えるのは覚悟も情熱も必要だ。なぜならそのように声を上げるヒトが少数であり、このメカニズムにおいては少数であることは弱者であるからだ。自然の摂理では弱いものは強いものに食べられてしまう。

 

この残酷な世の中をどのように生きますか。

 

しらいし