「男女の友情は成立するのか」

あるかたから「男女の友情は成立するのか」というお題をいただいたので、書き示してみたい。
 
この手の議論は哲学的には「無意味」とされる命題である。答えは簡単で「ひとそれぞれ」だ。哲学(人文学)では「ひと」という概念を取り扱い議論してきたが、この「友情」は「ひととひとの関係」であるために、社会学(社会科学)や心理学(人文学)、脳科学(自然科学)の場で議論され得る。
 
この学術的論評は複数の論文からエッセンスを受け記載している。
 
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はっきりと答えられる自然科学的な解答は「成立しえない」というもので、脳科学が根拠となる。それは「友情と恋愛では脳の働きが異なる」というものである。たとえ「このひとには恋愛感情はない」という男女でも脳は、恋愛状態のときの働きをする。
 
脳は正直である。生物学的な女性は「より良い遺伝子」を求め、生物学的な男性は「子孫繁栄」を求める。つまり相手のことを「異性」として認知していることで矛盾し解答が得られる。
 
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ある一定の精度をもって答えられる心理学でも「成立しえない」が解答になる。その理由は実に曖昧であるが、1)相手にパートナーができると疎遠になる傾向にある。2)男性は性本能、女性は母性本能を抱く傾向にある。などいくつかの仮説がたてられている。
 
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このように書き連ねてみると、納得のいく根拠であるが一歩引いて現実世界では、「男女の友情」を成立している場をみることがある。
筆者自身もいくつかの女性の友人もいるし、彼女たちには全く恋愛感情を抱かない。
 
やはり世間ではそうおもうひとも多い。「異性間の友情」について社会学者はこれまでいくつもの調査を行なっている。また近年ではマスメディアによるアンケートも実施され公表されているが、そのほとんどは概ね「成立する」が5割、「成立しえない」が5割である。
 
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きっとこのお題をくださったかたは、このようなことではなく筆者自身の意見を聞いてみたいのだとおもうので、以下に書き示してみたい。
 
こういうお題の際は、まずなにを問われているのかを明確にする必要がある。2つに分けた。
そもそも友情とは。そもそも男女とは。という2点から考えていきたい。筆者のなかでの定義から、議論を展開していきたい。もちろん根拠なく筆者の妄想であることをご了承いただきたい。
 
そもそも友情とは。
 
「あのひととは友人だ」とおもうとき、そこにはどんな関係性があるのだろうか。「友情とは何か」を明らかにすることで、その定義がもし「男女間」では成り立たないのであれば、論理的には「男女の友情は成立しない」と証明できる。
 
私が考える「友情の定義」は、「同質性を持ち合わせた複数による質的な無目的な関係」である。
 
友人を思い出してほしい。何か同じ経験をしていたり、同じところにいたり、同じ考え方を持っていたり、するのではないだろうか。趣味や好みなどの表面的なものから、学校や職場といった社会的所属、ある問題についての意見や信念などの内面的なものについての「同質性」が存在するのではないだろうか。
 
さらに思い出してほしい。友人である「目的」はあるだろうか。なぜこのひとと友人であり続けるのか、その理由は「一緒にいて楽しい」とか、「気がある」みたいな質的なもので表現するのは難しいだろう。
 
それがもし量的なものであれば「友情」であるとは言えないかもしれない。例えば「お金を貸してくれる」などというもので「目的」が形として現れると途端に怪しくなる。
 
であるから「同質性」「質的」「無目的」であることが本質的な定義であろうと考える。
 
では「恋人」や「仲間」「上司ー部下」といった関係ではどうだろうか。
 
「恋人」の場合は、「目的」という1点で崩れる。それは「ひとつになりたい」と言うもので肉体的な性欲であったり、精神的な欲、結婚という法律上の結びつきが挙げられる。これらの「目的」をある一定有しており、「友情」とか異なる。
 
「仲間」の場合も、「目的」で崩れる。それは「何かを成し遂げること」を「目的」とした関係性であるからだ。もちろんその目的を超え「友人」として関係性を構築することもある。
 
「上司ー部下」の場合は、「質的」ではない組織のなかで意味づけされた関係性であり、それぞれの意思が反映されたものではない。もちろんそも質的な関係を超え「友人」として関係性を構築することもある。
 
以上の3点をさらに噛み砕き「友情の特徴」を描き示してみた。
1)自決権を有すること、2)対等であること、3)利他的であること、である。
 
自決権は「友人であることを本人が決めること」、対等性は「お互いに人間的に尊敬していること」、利他性は「助け合い、支えあること」である。
 
以上から「友情」は「同質性を持ち合わせた複数による質的な無目的な関係」であると定義づけを行い、その特徴は「自決権を有すること」「対等であること」「利他的であること」としたい。
 
これらが異性間に存在し得るのかみていきたい。
 
そもそも男女とは。
 
ここでの男女間については、SEX(セックス、生物学的な区分)ではなく、GENDER(ジェンダー、社会的・心理学的な区分)のことである。よって、配偶子や配偶体の生産や性染色体の組み合わせなどの議論ではない。Gender(ジェンダー)とは社会学的な区分のことである。所属する社会や文化から規定され、表現され、体現されるものである。それは服装や髪型などのファッションから言葉遣い、職業選択、家庭や職場での役割や責任の分担にも影響を与える。
 
この議論をあとですることにして、私がいいたいのは「ジェンダーレス」の現状である。社会学的な区分では、性差はないといえるかもしれない。それはGender(ジェンダー)を規定してきた、社会や文化がここ60年ほどで変化しているためである。(ひとこと書いておきたい。それぞれの人種が平等だと言い出したのは、1948年の世界人権宣言で、それ以前は「人種差別は正当」だったし、日本における男女雇用について平等と言い出したのは、1985年の男女雇用機会均等法で、それ以前は「女性は家庭を守れ」と言う社会文化だった。)
 
85年の男女雇用機会均等法は、そもそも人類には「男女」と言う2種類しかいないと言う前提に立っている。それから35年ほどで「それは違うよね」と人類は言い出したのだ。
 
このような社会環境を見つつ、「男女の友情は成立するのか」について書いてみたい。先ほどの定義と特徴からは、「成立する」と言えるのでないだろうか。
 
男女で決定的に違うことはあれど「同質性」は存在し得ないことは否定できないし、「質的」な関係もあり得る、さらに「目的」もない場合もあるだろう。
 
さらに社会環境からは、そもそも男と、女ってなに、と問われているし、個々人も考え込むこともある。社会や文化によって規定されないGendar(ジェンダー)においては、戦前でいう「100%男」とか「100%女」であることも少なくなっているのかもしれない。
 
(この質問からは「男性同士の友情は成り立つ」と言う前提があるため)ある部分で「女性的な面がある」人類は、同一の部分で「女性的な面がある」人類とは「友情は成立する」といえる。
 
例えば、生物学的な男性でメイクアップするかたと、社会的な女性でメイクアップするかたとの間には「同質性」がある。さらにその趣味について目的なく語らうこともできる。まさしく「男女の友情は成立している」場であろう。
 
以上が社会学的な性差区分(ジェンダー)を前提とした「友情」についての考察である。
 
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では、生物学的な性差区分(セックス)を前提とした場合はどのようになるだろうか。それは文頭でも述べ、脳科学的、心理学的にも証明されたように「男女の友情は成立し得ない」と言えるだろう。どちらも本能的に求め合うためであり、それが人類の目的でもあるからだ。
 
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私のなかでは文頭で示した、「哲学的にこの問題は不完全であり議論の余地なく『ひとそれぞれ』」というのを私個人の回答としたい。
 
しかし社会一般的にみても親しみやすい論は「成立する」もしくは「ひとそれぞれ」という結論に達した、社会学的と哲学的な回答だろう。
 
ぜひ皆さまのご意見を頂戴したい。白石(riku.s@zoho.com)まで。
 
しらいし