少数者による多数者の監視→相互監視社会の形成

【少数者による多数者の監視→相互監視社会の形成】

 

自身の生活を省みて,思うところがあり,「IT革命がなにをもたらすか」「ひとによるひとの支配とコントロール」,以上の2点について,ラフにまとめてみようと思う。

たとえば,パソコンやスマートフォンはいうまでもなく,我々の日常生活のほとんどが,デジタル情報テクノロジーによって構成されている。決算はカードで行い,電車は交通系ICカードで乗り込み,音楽は配信サイト,車のカーナビなど,いくらでも例としてあげることができる。この情報化を背景とした,テクノロジーの日常生活への浸透の特性は「監視されている」と意識させないことにある。

 

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少し歴史を見ると,1976年フランスの哲学者,ミッシェル・フーコーによる「監獄の誕生ー監視と処罰」が思い出される(長い哲学の歴史を見るとかなり最近の作品であるが,情報化という急速展開されるものを捉えていない。)。本書は,イギリスの功利主義的哲学者であったベンサムが考案した監獄「パノプティコン(一望監視施設)」にもとづき,これを社会全体に代入した。

 

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Panopticon

 

これは塔を中心として周囲に監獄を設置した建築プランである。塔からは看守が囚人たちを監視するが,囚人たちは看守の姿を捉えることはできない。要するに看守は中心から一切の状況や動きを監視しているにも関わらず,囚人たちはその看守を見ることができず,いつ,どんなときに見られているか認識できない。難しくいえば,「権力は姿を消し,2度と姿を現さないが,存在していて,たった一度の視線が無数の複眼になる。」ことである。

 

この特性は「監視するもの」と「監視されるもの」の非対称性である。「監視するもの」は姿を消し相手から見えない。「監視されるもの」は常に見られ,その行動が詳細に記録される。さらに「監視」によってひとびとが規律訓練される(調教と言っていい)。いつも監視されていると意識をもつ「監視されるもの」は,秩序を乱したり,自分勝手な行動をしなくなる。

 

これが「少数者による多数者の監視」である。

 

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しかし,いまでは「塔すらない」という監視社会が成立しつつある。1990年には米国のメディア学者マーク・ポスターは「情報様式論」のなかで,フーコーの「パノプティコン」を発展させ「スーパー・パノプティコン」という概念を打ち出す。

 

これは至極簡単にいえば,「塔のない監獄」であり,その背景は,前途の情報化であり,特性は「監視されていることを意識させない」ことにある。

 

このとき誰が「監視されるもの」であり「監視するもの」であるのか,という二項対立が崩れ,この監視が自動的に行われていく。

 

フーコーの「パノプティコン」は「少数者による多数者の監視」をベースにしており,彼はこれが近代の特性であると主張した。しかし,実は,その反対に「多数者による少数者の監視」も進んでいく。つまりそれは「メディア」の発展であり,これは「多数者に,少数者を見せる」ものである。これを「シノプティコン」といい,つまり我々は,「監視されるもの」であると同時に「見物するもの」ですらある,ことである。

 

少し時計を戻し,現代。「見世物」の側面はマスメディアから相互的なSNSに変化している。スマートフォンの画面を見ながら,情報を検索するとき,同時に我々の動向はつぶさに監視されている。この2点は切り離すことはなされない。

 

まさに「相互監視社会」である。

 

フーコーは近代的な権力の究極の比喩としてこの概念を用いたが,「相互監視社会」においては,権力を持たぬ,たんなる人が,ひとをコントロール,もしくは支配することは容易い。よって,いまは「ポスト・パノプティコン」の時代といってよいだろう。

 

しらいし