資本主義下における「自己認識」について そのジレンマからの脱却について

人間と他の生き物とのちがいは何でしょうか。
それはつまり「らしさ」を知っているか否か。

ねこが、ねこ「らしい」のは、ねこが単にそれらしく動くからです。

しかし、人間が人間「らしい」動きをするのは、「らしさ」を知っている場合のみです。
つまり、われわれが「自分らしく」もしくは「人間らしく」生きるためには、「自分とはなにか」「人間とはなにか」を問いかける必要があります。

このような論理から、人間とは‥
自己認識する存在である。とされます。

ーーー

マルクスは「資本主義」という社会システムについて分析を行い、現在までに多くの影響を与えました。

彼の著書「経済学・哲学草稿」には(ヘーゲルからの強い影響を受けているが)、われわれが自己認識するためには労働が必要だといいます。
(ここでいう「労働」は賃金をもらって他人のために労働する「賃労働」とは異なります)

そもそも労働とは、われわれが自然に対してなんらかの手を加え、これまでなかったものを生み出すことを意味します。マルクスは労働によって生み出された生産物によって、はじめて「どんな人間かを認識できる」とします。

われわれは自分の判子を自然に押し込み、その型で、自己を認識します。

つまり、ある人の可能性・潜在性は労働を介し、生産されたときに、また生産されたものに反映します。それまで自分でもわからないものです。

「自然に手を加えて、これまでなかったものを作り出す営み」ー労働

「労働生産物から労働主体が認識される」ー自己認識の本質

しかし、資本主義下での労働はこのような認識をあたえない(つまり、自己認識ができない)賃労働になっている。(疎外されている)

理由は4つ
ケーキ屋さんを例にあげます。自分は雇われ、賃労働しています。

1)事物の疎外
出勤し、今日はショートケーキをつくりました。
しかし、わたしがつくったショートケーキはケーキ屋さんのもので、わたしのものではありません。そして、その材料もケーキ屋さんのものでしたから、わたしの所有物はありません。

手を加えるべき自然(この場合は小麦粉やら、砂糖やら)も出来上がった作品・労働生産物(この場合はショートケーキ)も労働者(わたし)ではなく、資本家(ケーキ屋のオーナー)の所有物である。

つまり、わたしの写し鏡である、ショートケーキはもはやわたしのものでなく、自己認識が不能になる。

2)自己疎外
出勤し、今日はショートケーキではなく、モンブランを作りたかったが、オーナーがショートケーキを要求したので、ショートケーキをつくりました。このショートケーキの作り方はマニュアル化されていて、誰でも作れる。

このとき、労働生産物は雇われた人なら誰でも同じように作れるようになる。

つまり、労働生産物が自己認識のために、使えるものではなくなる。

3)類的本質からの疎外
わたしはなぜ働くのか。お金を得るためになっており、賃労働は生存のためのたんなる手段になっている。

人間の本質は労働にあり、人生の目的は労働にあった。ところが資本主義下では、賃労働が生存のための手段になっている。

労働が、自己認識する喜ばしいもの、目的だったものが、賃労働になり、苦痛なもの、たんなる手段になり下がった。

資本主義下での人間の生は、自己認識は獲得できず、たんなる生物として生きるだけになる。

「自己を喪失し、動物化する。」

4)人間の人間からの疎外
資本主義下では労働が賃労働になる。そして賃労働によって、1)2)3)が成立する。
「金を持った人間が金を持たない人間を雇い、金を持った人間のために労働させる」

人間が2つの階級に分裂される。
資本家・労働者
資本家も自ら労働しないため、自己認識できない。

どちらも本来の意味での労働から疎外されている。

ーーー

わたしは「労働」のみが人を自己認識させるとは考えていません。
われわれが「らしさ」を見つめ直し(資本主義下においても)、「らしさ」を求めるのは、可能であると考えています。
それは「らしさ」がなければ「動物化」してしまうと「知識」を得ることにあり「経験」によって自己認識すると考えます。

ぜひ意見ください(riku.s@zoho.com)
しらいし