正しい行いとはなにか。

不毛とおもわれるかもしれないが、「正義」について話をしよう。

 

「正義」、つまり「正しい行い」のことであるが、しばしば互いの「正義」の隔たりがあって、なにか大事なものを失ったりするものだ。

 

すこし整理してみれば、「正義の根拠」には、3つのタイプに分けることができるとおもう。1つめが「幸福」、2つめは「自由」、3つめに「道徳」である。

 

1つめは「功利主義」とよばれ「最大の多数が幸福を感じるように、行動せよ。」というものだ。ポイントは社会全体において「幸福」が最大になる、ということだ。

 

2つめは「自由主義」とよばれ「個々人が自由になるように、行動せよ。」というものだ。ポイントは社会全体が「自由」になるが、「自由」には孤独が付きまとう、ということだ。

 

3つめは「直観主義」とよばれ「良心に従って、道徳的な行動をせよ」というものだ。ポイントは正義を「直観」として捉え、「正しいことは明白である」と押しつける、ということだ。

 

面白いことに、ひとが議論して、なにかを主張するとき、以上3つに沿っている。それぞれが違う「正義の根拠」をもってして議論した場合、必ず対立して収拾がつかなくなる。

 

翻って、「絶対的な正しさなんかない」と主張するひとがいたとする。これは「正しさがない」という「正しさ」を信じているにすぎない。

 

だからといって「正義」について問うのは無意味だろうか。いや、われわれはみな「正義」「正しさ」をもとめる存在であり、「正義の根拠」をさがしている。

 

わたしがAと主張したとき、わたしはAが正しいと信じている。そこには「それを正しいとおもっている自分」が存在する。

どんなにいっぽ引いて、主張するAを疑おうと、「疑いを正しいとおもっている自分の存在」は決して疑えない。われわれは「正義」「正しい」という概念から逃れることはできないのだ。

 

われわれはこの堂々巡りの「正義の根拠」について、もっとよく知らなければならない。