孤独について

あるひとに「詐欺師みたいだ」とか,違うあるひとに「悪魔だ」といわれた。あるひとには「あなたは天才だ」,あるひとには「天使だ」といわれた。

 

ある講演会で「不確実性の高い世の中を生きるために必要なスキル」について話したとき,それは「孤独を愛すること」だ,といってみた。

 

ドイツの哲学者,エーリヒ・フロムは彼の著書「自由からの逃亡」で「自由とは,堪え難い孤独と痛烈な責任が伴う」と述べている。

現代に生きるわたし達は「自由」を無条件に良いものだと考えているとおもう。が,本当にいいものだろうか。彼はこの問いについて「ナチスドイツ」で発生したファシズムに注目していますが,ここでは触れずに,かんたんな構図と結論を書き残しておこうとおもう。

自由とはカオスであり,調和(ハーモニー)の逆だとおもっている。現代の日本で生きるわたし達にとって,企業とか地域,家族を含めた人間関係などからの束縛を離れて,「自由に生きること」が絶対善としてみている(少なくともわたしの周りはそう)。調和とは年功序列の評価制度や,官僚組織であり,形式だけの情とか,御恩であろう。それから離れることが素晴らしく,幸福になるのか。これが鋭い問いだ。

中世以来続いた封建制度への隷属から解放された16世紀から18世紀のヨーロッパでは,多くの犠牲を払って「自由」を手に入れた。しかしその後,自由がその代償として必然的に生み出す,刺すような孤独と責任の重さにおおくの人は疲れ果て,その自由を投げ捨てるようにナチズムの全体主義に加担していった。その背景には2つの人格がある。それらを総合して「権威主義的性格」といい,1つが自由から逃れたい性格であり,新しい依存と従属を求める性格だ。権威に寄り添い責任から逃れ,孤独を解消したいと考えているひとびとのことである。2つが自らが権威でありたい性格だ。この2つを合わせると非常にシンプルな構図が見えてくる。自分よりも上のものには媚びへつらい,下のものには威張りたい。これだ。それがまさに調和をうんでいるのかもしれない。

しかし,我々は自由を求める。ということは「孤独」と「責任」を乗り越えるすべを知らないといけない。フロムは以下のように回答している。

人間の理想である,個人の成長,幸福を実現するために,自分を分離するのではなく,自分自身でものを考えたり,感じたり,話したりすることが重要であること。さらに,なによりも不可欠なのは「自分自身であること」について勇気と強さを持ち,自我を徹底的に肯定することだ,と。

 

だから,うちの1つである「孤独を愛せ」とおもっている。

 

わたしは「自由」を愛しているし,「孤独」も愛そう。「責任」すらも愛そう。話が平行線になったりするのはお互いに「自由」だからだ。みている景色が違うだけ,感じている感覚が違うだけで,どちらが正しいとか,間違っているとかではない。

 

自由とは孤独だ。

 

別にいい,こうやって冒険をしていると綺麗な景色が見れる,孤独に嘆き苦しむ時間なんぞ勿体無い。

 

しらいし