表象と意志について

ひまなのでブログを書く。

 

ショーペンハウアーはわたしが最も好きな哲学者の一人であり、「読書について」「知性について」「自殺について」は、ある程度おおきな書店にいけば必ず置いてある。しかし、わたしが衝撃を受けた「意志と表象としての世界」はあまり世間一般では語られていない。

 

うーむ、冒頭でかれなりの世界観が投げられる「世界は私の意志と表象である。」なんとも芸術的なセンテンスだろうか。

 

といいつつも、理解ははっきり言って無理だ。つまり、世界ってのは「意志」ってものと「表象」ってもので構成されている、ということだけ整理できた。

 

まずは「表象」とは、かんたんに言えば「モノ」だ。ありとあらゆる構造物は、モノとして世界に現れた『なにか』だ。ラップトップやスマホ、ひとや、ベンチ、サンドイッチなんかも「表象」といえるだろう。

 

すこし踏み込んでいえば「認識できるもの」は「表象」だ。じぶんの主観や、ひとからみた客観、それらすべてを含んだ「認識できるもの」を包摂している。

 

おーっと、ということは、わたしという主観がきえて「認識できなくなった」ら、「表象」は消えてなくなり、わたしの世界も、あなたの世界もおわる。

 

こんな思想を「唯心論」だ。「この世界の実体はわたしの心だけ」という思想で、ショーペンハウアーは非常にこちらに近い。といいつつも、彼は「悲観主義」だ。わたしが死んだら、何もなくなる、ということは「わたしの存在自体には価値なんかないではないか」、「生きてる意味なんてない」という結論に達している。

 

いやいや、ある人が死んでも「モノ」は残るだろう、と、ケチをつけたい気持ちもわかる。ショーペンハウアーはこの問題についても答えを示している。前途の『なにか』がそれ、だ。

 

つまり「表象」された、(認識された)『なにか』であって、かれは「意志」といった。

 

おもしろくなってきた。

 

プラトンはこういったことがある「われわれが見ているのは灯に照らされて洞窟に映った自らの影だけである。けっして灯そのものを見ることがない」と。

 

影が「表象」であって、灯そのものが「意志」だ。

 

おー、なるほど。

 

ショーペンハウアーは「表象」について、つまり「モノ自体」とはなにかと、問うた。そして「表象」と「意志」の関係について、「意志が表象として認識されるときの『根拠』」を導き出す。それが「根拠の原理」だ。

 

それは①因果の法則、②論理の法則、③時間・空間の法則、④動機付けの法則、である。これは後日説明したい。(とおもってる)

 

つーっとなにがいいたのか。「モノ自体は根拠をもっていない」ということだ。モノそのものはある意味まやかしであり、本質は「意志」だ。

 

世界のすべての表象は、根拠なしに終わりなく動きつづける力であり、それが意志だ。

 

(時間なのでまた。)

 

しらいし