自己神格化と神の勃興


近現代という時代はどんなもんだったか,神が失脚し、人間が神になった時代だった。
神が定めた普遍的なルールが崩壊して,失敗し,新たなルールを策定させていった自由気ままな時代だった。少なくとも権力者にとっては。

【普遍的な神の失脚】
時代区分の定義はどうでもよろしいが,産業革命をもって近代世界とする。そして戦後の世界を現代だ。
神の普遍的なルールに加えて,科学的な理論が,世界の理論となった。人の細胞レベルまで分解され,物質は刻まれた。人の行動は科学によって分析され,規定された。つまり人間が人間を規定する神になったのだ。
道徳が置き去りにされ,暴力が正当化され,戦争が起きた。人が死に,それが正しいと思い込んだ。しかし今,戦争をよしとするのは少ない。なぜなら,現代が単なる反省の時代だったからだ。

【平等な人間の神】
人権宣言が煮詰まったのはたった70年前だ。「人間とは何か」を議論してきた。「やっぱり道徳は必要だよね」と考えついた人間は,それを明文化しようと試みた。現代の遺産の多くがそれである。
つまり,人は自信と他者を含めた「人間」という枠で規定をしていったのだ。人種の差はない。男女の差はない。と。多くの先進国ではそう信じられている。私自身もそう思う。そしてそれを規定していったのは,他でもなく「人間」という大きな枠組みだ。

【公正な人間の神】
と同時に、他方では歪が生じた。私は「普通ではない」と考える人や,ありとあらゆる理由から「ちょっと枠外」に位置する人たちの抵抗だ。問題の背景は,そういった人々を考慮に入れずに議論してきたからだ。
さらに「枠など必要ない」と考え始めた多くの野心家は「多様性」と言い始める。近現代で積み上げてきた「人間観」を崩壊させる。大きなムーブメントである。人々が枠を超え,自分自身で自分自身を規定し,「私は私」と語り始めた。わたし自身が,わたし自身を規定する神になった。

【価値観の共有・存在】
人々の考えはそれぞれが,疑いなく正しい。そして,存在している。さらには,それぞれが集まった普遍的なひとつの考え方もまた,必要である。

ひとつのペンを見たときには,あるひとはそれを「ペンがひとつ」といい,あるひとはそれを「プラスチックがたくさん」というかもしれない。あるひとはそれを「キャップを取れば,キャップがひとつとペンがひとつ」または「キャップのついたペン」というかもしれないのだ。それぞれがすべて正しい。

しかし(ペンの認識はどうでもいいが)行動様式の善し悪しや、社会的ルールの場合は,普遍的なルールが必要だ。

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今日の議論には堂々巡りがおおい。われわれを規定する2つの神の認識や,物事の存在については,乖離がある。ということを心得ていないと,永遠と堂々巡りのままかもしれない。