「悪」とはなにか

この文章は、以前のポストにてメンバーのかたから頂いたリクエストにお答えし「悪とはなにか」について、これまでの人間史(おもに哲学史)において議論されてきたポイントを洗い出したものである。

 

まず「悪」という言葉は一般的に「正義の反対またはその欠落」と意味される。しかし、近年では(主に9.11同時多発テロ事件以降)「正義の逆は違う正義が存在する」と、世間一般でも認識されつつある。

 

つまりイスラム教における聖戦(ジハード)は「防衛のための戦い」であり、それを信仰するイスラム教徒にとっては、あのテロは「正義(正しい行い)」だと言えるのだ。少し咀嚼し、我々に馴染み深いものに置き換えてみる。「人は殺すべきではない」とおもうだろうが、事実「人を殺してもいい」場面がある。死刑制度である。それは国家による自由のはく奪である。平成26年の内閣府による世論調査によると、「死刑もやむを得ない」と答えたものが8割を超えている。もちろんほかの国家では死刑制度が撤廃されつつあるのが事実であるが、少なくとも日本では死刑制度が続き、それを国民は支持している。

 

以上のことから、一概にひとことで「悪とは正義の逆である」と言えない。

 

では、悪とはいったい何であろうか。

考えられるのは、「正義(正しい)」の逆ではなく「善(よいこと)」の逆というものだ。「善」というものは「正義」よりもさらに柔軟で多様性を要する認識であり、体系的に検証し認識することは困難を極める。そのために一般に善と悪を区別するものは「道徳」と呼ばれ、これも議論が続いている。こんかいは3つ紹介した。それぞれの結論は以下の通りである。

 

1)「何か見返りを求める行為一般である」

2)「ひとの自由(=幸福)への意思を妨げようとする行為である」

3)「自分の行為を顧みることができないことである」

 

ちなみに1つめのカントの議論が難解ですが、ぜひスッと読み進めてください。

 

 

イマニエル・カント(ドイツの哲学者・1724年〜1804年)は著書「実践理性批判」で、道徳の本質について定言命法で答える。それは「汝の意思の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」というものだ。難解すぎるので読み解くと、「人間の欲求から離れて、自分の意思をもって自分で義務として課し、ルール化したことを行為せよ」というものだ。さらに読み解くと、誰からも命令されることなく、自分の意思をもって「よさ」を追求する態度である。例を挙げると、電車で自分の目の前に老人が立っている。「あぁ、かわいそうだ。譲ってあげようか。」と思い、譲るのは、カントにとって「善」ではない。なぜなら「譲りたい」という欲求があるからだ。他人に何かをして自分が幸せになろうという欲求に流されているにすぎないということだ。この定言命法では、義務としてその行為を行ったときに善いことになる。

 

つまり自分の欲求を満たすことや他人からの高評価などの見返りを一切求めない行為が「善」ということになる。

では、「悪」とは「何か見返りを求める行為一般である」

 

 

G・W・F・ヘーゲル(ドイツの哲学者・1770年〜1831年)は著書「法の哲学」において、「正しさの本質」について説いている。正しさとは自由を求める意思であるとしている。その意思の原動力となるのが、欲求や衝動であろうが、それにだけ従えない場合がある。それは例えば、学校や仕事に向かうとき「行きたくない」と思いつつ、それが結果として自由になるために必要であると知りえれば、ダラケたいという欲求や衝動を我慢する。つまり自由と欲求・衝動は相関関係のうちに現れる。

 

この欲求や衝動を抑えつつ自由(=幸福)を求める意思こそが「善」ということになる。

では、「悪」とは「ひとの自由(=幸福)への意思を妨げようとする行為である」

 

筆者の意見(ここから)

それらを妨げるものは、2つあると考えられる。ひとつが平等性、ふたつめが公平性だ。

「平等性」とは、地球上誰もが与えられるべき権利と機会が、100人いたら100人に提供されることである。

「公平性」とは、地球上誰もが得るべき評価や取扱が、100人いたら100通りの評価をされることである。

アフリカの僻地で教育を受けられない子どもがいるのは「平等性」に欠け、ゆとり世代はダラケているというのは「公平性」に欠ける。

(ここまで)

 

 

 

以上の2つは「善」の裏側として「悪」を概観してきたが、3つ目にしてやっと「悪」は何か、という直接的に答えようとした議論を紹介する。

ハンナ・アーレント(ドイツ出身の哲学者・1906年〜1975年)が雑誌「ザ・ニューヨーカー」に連載した「エルサレムアイヒマン」において「悪の陳腐さ」という概念を打ち出している。この文章はアドルフ・アイヒマンナチス政権下のドイツの親衛隊将校で、強制収容所へのユダヤ人の大量移送の指揮を執った人物)の裁判記録である。

アーレントアイヒマンをみて「普通のひと」であることに驚嘆したと書かれており、大量殺人を指揮するような人物には見えなかったとしている。彼女の分析では「悪はまったくの無思想性から生み出された」として「悪は陳腐である」と締めている。

アイヒマンは「ユダヤ人を大量殺りくすること」が正しいことなのか悪いことなのか一切考えず、命令に従ってそれを効率的に実行した。

つまり、「悪」とは「自分の行為を顧みることができないことである。