なにがなんなのか

数年前に『現代文明と哲学』という講義を受けていた。通年科目で全学科、全学年が対象であったにも関わらず、受講するのは数名だった。もっとも月曜日の1限目だったのが主因であろう。さらに聞けばこの講義は某掲示板では単位をもらうのが難しい、と書かれていた。いわゆる「楽単」ではなかったらしい。

 

私はこの講義がひそかに楽しみだった。キャンパスの端に追いやられた薄暗くただ広い教場に、生徒が数十名、教授が1名。教科書もなければ資料もない。ただ適当で止めどない板書がされた。遅刻してくる生徒は重く響く音がする戸を開けた。次第に生徒が少なくなり、生徒は数名になった。

 

初回、小太りの教授は開口一番「哲学は高尚な学問ではない」と仰り、生徒は黙った。

「哲学は、単なる文字列であって、2400年続く人類の営みを表現するにはあまりに陳腐である」と続け、「だからといって、決して高尚な学問ではない」と仰った。

「その人類の営みをしているのは、学者ではなく、公衆である。その愚かな人類は人類についてなにも知らない。であるから高尚であると考えることが誤ちである。」と私の疑問に答えた。

 

それからというもの、月曜日の朝9時が楽しみになった。多くのことを学んだ。試験はA3紙が複数枚配布され、中央に「あなたは何者か」と書かれていた。

この不思議な経験から、哲学というものに取り憑かれ、あらゆる図書を読みあさり、あらゆることを考えるようになった。

 

哲学には2つある。1つは名詞としての哲学である。2つが動詞としての哲学だ。

 

名詞としての哲学は、過去との対話であり過去の哲学者との対話である。つまり「過去の哲学者はこう考えていた」と知識を得ることである。

動詞としての哲学は、現在との対話であり自分自身との対話である。つまり、過去の哲学者が成してきたような思考を生活のうちに実践することである。

 

もちろんそれぞれ相互性をもっており、独立してでは実現されない。

 

哲学には問題といわれるものが存在している。それは「人間とはなにか」「世界とはなにか」などがある。人間の真理に迫る迫力のある問題が多い。

このような問題群に対してあらゆる哲学者たちが仮説を披露しては、過去の知識人らにバカにされたり賞賛されたりする。このような人類のうちで議論することが哲学の醍醐味である。もっとも街中での群衆が議論することが哲学の起源であるとされている。

 

が、これらの問題に対して単一の回答がされているわけではない。加えて書き足すと「人間は真理はなにか」と考えていたのに「真理はない」と結論づけられる場合が多い。

つまり、哲学は人類が取り組むべき問題に対する人類による営み全般である。過去の提出された仮説は、名詞としての哲学であり、積極的に取り組むことを、動詞としての哲学といえる。

 

この人類が取り組むべき問題は総じて「正解のない問い」である。前途の通り、単一の回答があるものには、哲学する必要性がないからである。

 

この「正解のない問い」に対する積極的な態度は、時空が拡大され、人間が可視化された現代において、必須である。

 

実に、消極的で逃げ姿勢の人類が多いように思える。