【宗教改革の思想と文化】「文化」と「社会」の観点から 「ルネサンスと宗教改革」の影響
2017年はルターが34歳にしてヴィッテンベルク城の教会の扉に「95カ条の論題」を貼り付け,当時の教会がバチカン・聖ペテロ大聖堂の建築にかかる費用調達のために発行した贖宥状に関して抗議を行ってから,500年の記念すべき年であった。マルティン・ルターのただキリスト教の教え,特に福音の教義を純粋に説き,かつ,守るという思想とそれに伴う16世紀全般の政治的,精神的の変化は「ルネサンスと宗教改革」の時代として広く現代社会に影響している。今回は,近代社会における 「宗教改革」の意義や影響を論じ考察する。
宗教改革とは何か
16世紀に起こった宗教改革にかかる一連の運動は,ルネサンス運動と並行して進行しており,「ルネサンスと宗教改革」の時代と呼ばれる。ルネサンスとは「復興」「再生」を意味するフランス語であり,ギリシャ・ローマの古典文化へ「源泉に立ち帰る」ことである。宗教改革もまた「聖書」という「源泉に立ち帰る」ことを志した一大精神運動である。宗教改革は当時のヨーロッパ世界の精神的・政治的において最高権威であったローマ教皇による教会支配を脅かすものであり,社会・政治とを同時に大きな変動をもたらした革命である。
また,マルティン・ルター(1483-1546)はそれを主導した指導者であり,この改革運動を多数の支持者と協力者を得てはじめて実現できた人物である。では,どのようにして宗教改革は現実に起こったのであろうか。その直接的な原因と言われているのは「教会の腐敗」とそれによる「贖宥状(免罪符)」の大々的な販売であった。当時のカトリック教会は一般信徒のためにさまざまな意識や制度を制定しており,その中にはグレゴリウス1世以来の伝統である「悔い改め」という重要な儀式があった。その中身は「痛悔」「告白」「償罪」であって,このために巡礼に行ったり十字軍に参加したり,罰金を払ったりしていた。これらに加えて最後の救済行為として贖宥があり,カトリック教会はキリストと諸聖人の功徳により罪を免ずる権利を持っていると主張した。さらに教会はこの贖宥状が地上における罪のみならず,死後の煉獄に対しても有効であると主張された。それは「天国の鍵」は使徒ペトロ以来教会が持っていると信じられていたからである。しかしルターが攻撃したのは,当時一般に広く売られていた贖宥状ではなく,ローマにあるサン・ピエトロ大聖堂新築のため1506年と1514年に発行されたものであり,その代金のほとんどがアルブレヒト大司教の手に入り,教皇庁に納入すべき巨額なカネが,彼が借金していた銀行家のフッガー家の手に入ったのである。
一般に中世と呼ばれる西洋のカトリック教会文化は,ルネサンスと宗教改革とをもってそれを終わりに達する。ルネサンスと宗教改革は,普遍史的な地位を占め,同時期に現れるので,1つの大きな運動が2つになったのだと言われている。その2つは内的に関連し補足しあっているのは疑いようのない事実である。
ルネサンスとは14-16世紀に全欧州的に広がった文化革命運動であり,その影響は政治・社会・宗教にまで及び近代文化の基礎を作ったと言われる。さらにドイツの宗教学者エルンスト・トレルチは著書(ルネサンスと宗教改革 岩波文庫)の中で“ルネサンスの精神は「近代的個人主義の発見」である”としている。つまり中世的な精神束縛からの脱却により人間を解放し,人間性の肯定が導き出されたことをルネサンスの意義としている。さらにルネサンスという言葉は「再生」「復活」を意味するフランス語であり,この場合「ギリシア・ローマ時代」への復興を意味していた。
宗教改革は徹底的な①万人祭司主義②聖書主義③自由④罪論の振り返りであり,源泉に立ち帰ることであった。当時は聖書と並んで古代教会の伝統を重んじていた。しかし脆弱化した教会政治と「源泉に立ち帰る」ことを基本姿勢としたルターの「神の前に立つ人間」の探求が宗教改革の出発点となったのである。
これら2つの共通し重要な点は,過去の束縛からの脱却により「源泉に立ち帰る」ことを目指したことである。
ルターの生涯
マルティン・ルターの父ハンスは長男であり,土地の細分化を拒むために作られた末子相続という当時の相続法に従い家を離れ,鉱夫として身を立てるためにドイツ・アイスレーベンに移住した。その地でルターは誕生する。ハンスはルター誕生の翌年には銅精錬行の事業に加わり,成功を収めていくことになる。その後ルターは5歳にしてラテン語学校に入学,エンフルト大学の哲学部や法学部で学びを増したが,22歳の時,通学中に落雷を受け生と死について直面する。その後に修道士になることを誓うことになる。アウグスティヌス会の修道士となったのち,24歳で司祭へ,ミサを執行。30歳で神学博士号を取得される。彼はその過程で「神と個人の関係」について「正しいものは信仰によって生きる」とされているとし,罪の救いは教会制度によるものではなく,個人と神の直接的な関係性に準ずるのだと考えるようになる。これは初期のキリスト教教理の再発見である。そして1517年10月31日34歳,ヴィッテンベルク城の教会の扉に「95カ条の論題」を貼り付け贖宥状に対して抗議を行った。これを皮切りに宗教改革が始まったとされる。
文化的潮流の変化
- 説教改革
ルターの宗教改革は「説教の改革」を持って開始した。彼は当時行われていた説教に関して大変危惧しており,その内容がキリストを蔑ろにする虚偽の話であったり,無味乾燥な聖人物語や聖人伝説だったからである。純粋な福音を民衆に説教すべきとして,ヴォルムスの国会に召喚される前から「説教の雛形」を作成し提示する計画に着手していた。よって制作された「説教の雛形(標準説教集)」は信仰心としての霊性を一般民衆に対し育成する上で極めて重要な役割を果たした。これらはその他にも多く書かれ,キリスト教文化の形成に極めて,大きな役割を果たしている。
- 教育改革
ルターが挑戦した教育改革の歩みは3つの領域にわたっていた。1つは大学改革。2つ目に少年改革,3つ目に宗教教育である。1)大学改革では,それまでアリストテレスによる教養教育をアウグスティヌスの『霊と文字』に変更することから始まった。2)少年教育の改革は,義務教育制度の確立を目指しており,ドイツの各地で実行された。3)宗教教育は,腐敗した地方の教会を巡察して,それを是正すべく家庭教育と教会教育を促進するため,教育問答書を出版した。
社会的潮流の変化
「世俗化」という言葉は,ラテン語の「世代」に由来する。中世では在野の聖職者たちは「世俗に住む」と言われ,修道院に住む聖職者と区別されていた。のちに宗教改革によって修道院などの教会の財産を国家が民間に譲渡した時に,世俗化という言葉を用いた。本来,世俗化とは神聖なものが世俗のために用いられる現象であり,それはつまり宗教が外形的には宗教的構造を保ちながら非宗教的な目的に用いられている現象である。こうした世俗化のプロセスにより近代科学・政治革命・職業論理なども発展してきた。
ヨーロッパ16世紀の宗教改革は人類史の中で信仰の力がもっとも高揚した時代であった。そのなかで多くの分野で潮流が見られた。それらは総じて近代世界が古い慣習の束縛の破壊を徹底的になした。その主流はルネサンスと宗教改革であった。それらが近代に対して果たした役割はむしろ間接的なものであり,偶然な副作用もしくは意図せず結果に過ぎない 。さらに興味深いことに現代社会においても「古い組織的な束縛の破壊」が留意されており,重なる部分が多い。2017年は宗教改革500年を迎えたが,社会全体に与えた影響を再考することで,それを現代社会に落とし込むことができるだろう。
注)