【知ってる範囲で】ケニアの歴史

過去を知ると将来がみえます。

 

今回は,東アフリカに位置するケニアの歴史を1)奴隷貿易時代,2)英支配の時代,3)反英独立運動時代,4)英国からの独立,5)独立後の混乱,と5つのフェーズに分類する。

15世紀からの奴隷貿易時代からの記載にとどめているのは,それが外界世界と結びつけた直接的なきっかけであるためである。

また,1)を中心としていくつかの項目については,アフリカ全域ないし東アフリカ諸国の歴史と重複するが,関連しているために記載する。

 

 

  1. 1)奴隷貿易時代(アフリカ全域)15世紀ごろから18世紀後半まで
  • 大西洋奴隷貿易とは,アフリカの先住民を奴隷として,アメリカに売り込んだ近代ヨーロッパの貿易形態である。西ヨーロッパ諸国(ポルトガル,オランダ,イギリス,フランス),西アフリカ諸国(コンゴ王国,アンゴラ王国,現在のジンバブエモザンビークに位置したモノモタバ王国),そしてアメリカ大陸,西インド諸島が主体となった。(バズル1964: 101-109)
  • 15世紀から19世紀の前半まで(とくに,16世紀から18世紀)に,1説によれば5000万人以上(数字には大きな幅がある)のアフリカ人が,大西洋沿岸における奴隷貿易の犠牲者になった。(岡倉 2001: 13)
  • その影響は,今日のアフリカの低開発性の基本要因になる。(岡倉2001:19)その悪影響のうち最大のものは,労働力の莫大な損失と,生産力発展の麻痺,生産力の停滞化である。(宮本2018: 292)
  • 覇権を握ったのはイギリスであった。イギリスは,18世紀の間に西インド,北アメリカ,カナダを含む重商主義帝国を築き,19世紀にはアフリカ,インドネシア,オーストラリア,西インドに広がる植民地を獲得,「パクス・ブリタニカ」(イギリス支配による平和)が構築された。(宮本2018: 302)

 

  1. 1‘)奴隷貿易時代(東アフリカ地域-スワヒリ文化,ポルトガルのインド洋沿岸の支配,オマーンによる支配,イギリスの登場)15世紀ごろから18世   紀後半まで
  • (前史)インド洋を渡る大交易路(インド洋の西部海域,インド,アラビア,アフリカの東部沿岸地域)は,紀元前から交易活動が行われていた。(宮本 2018: 234)この交易は,バンツー語系(アフリカにおける言語の大カテゴリ)のひとびとと,アラビア語系のひとびととの交流を通じて,スワヒリ語を形成する。またそれを核として,スワヒリ文化を形成した。それが東アフリカに住むひとびとのアイデンティティ形成に大きな役割を果たした。(宮本 2018: 266)
  • (前史)この交易を通じて,15世紀までに東アフリカにはキルワ(現在のタンザニア)を中心として,モンバサ(現在のケニア)などを含め海港都市が発展していた。(宮本2018: 240)
  • 15世紀後半(1497年)ポルトガル艦隊が喜望峰を周りインド洋に入る。1498年4月にはモンバサを通過する。(宮本2018;244)
  • 1509年にポルトガル艦隊は,インドの沖合でエジプトなどイスラーム側の連合艦隊を破り,インド洋の大交易路の支配権はポルトガルが握るようになる。(宮本2018;245)
  • 1592年にモンバサがポルトガルによって占拠された。のちに,ポルトガルは通商活動を支配するために,モンバサに要塞や拠点を設けた。(宮本2018;245)
  • 17世紀になると,ポルトガルの勢力が後退し始め,変わってアラビア半島東部に位置していたオマーンが進出してきた。(宮本2018;250)1696年には,オマーンがモンバサを占拠した。(宮本2018:251)
  • 1720年以降,オマーンにおける内戦が影響して,東アフリカでのオマーンの勢力は後退した。(宮本2018;252)

 

 

  1. 2)英支配の時代(18世紀後半から)
  • パクス・ブリタニカ」を構築したイギリスは,18世紀後半,アメリカなどと足並みをあわせて,議会において奴隷貿易の廃止に関する論議が本格化する(岡倉2001:30)
  • 産業革命を経たイギリスは従来の搾取形態である奴隷貿易よりも,アフリカを市場として開拓したほうが利潤が多いと考えるようになる。(岡倉:2001;31)
  • 当時のヨーロッパ諸国にとって,アフリカの内陸部についてはほとんどなにも知らなかったが,18世紀後半から内陸部への探検を推進する。これはアフリカに眠る天然資源や労働力,原料市場としての関心があったためである。(岡倉2001:32)東アフリカのおける,これらの探検の積極的に行ったのが,イギリスであり,1822年以降,サンジバル島(現在のタンザニア領)を複数回訪れている。(岡倉2001:35)
  • 1888年,イギリスによる世界帝国建設の遂行のために,帝国イギリス東アフリカ会社が設立される。(宮本2018:336)
  • 1890年までに,インド洋のモンバサから内陸に進出して,地を支配する首長たちと保護条約を締結していった。「領土,人民,臣下を保護,支配ならびに統一すると同意,それらの利益と引き換えに領土と人民に対する主権と統治権を(会社に)譲渡する」というものだった。(宮本2018;337)
  • 1895年には,イギリス政府が東アフリカ会社の権利を25万ポンドで買い取り,「イギリス東アフリカ保護領」が設立。本格的な植民地支配が始まる。(宮本2018:338)
  • 1902年には,ケニア中央部の広大な農業適地をイギリス国王の土地とみなすと一方的に宣言した。(王地条例)いわゆるホワイト・ハイランドが誕生する。(宮本2018;339)
  • 1920年7月,東アフリカ保護領からケニア植民地領・保護領へと名称が変更された。(宮本2018:343)
  • 1921年には,「原住民登録条例」が施行された。これは16歳以上のアフリカ人男子を強制登録させ,登録された原住民住居地を離れるときはキパンデと呼ばれるカードを携帯しないといけない。というものだった。(宮本2018:344)

 

  1. 3)反英独立運動時代(18世紀後半から)
  • 初期の抵抗としては,局地的・一揆的性格以上のものではなかった。が,インド洋沿岸から内陸への鉄道建設を反対するグレイトリフトバレーに住むナンディ人の抵抗は有名である。1905年のナンディ人指導者の暗殺まで,イギリスはナンディランドを占拠できなかった。この事例は,伝統的な社会構造が,近代的な武器で武装した侵略者に対して効果的な抵抗をもたらすとの例を示している。(宮本2018:441, 479)
  • 1921年には,ハリー・ヅクが指導した東アフリカ協会が,土地の返還やキパンデ制度の撤回を求めて植民地省とかけあう。(宮本2018: 479)これらは政治的独立を訴えるというより,植民地体制内での改良を求めるものだった。(宮本2018:481)
  • 1930年には,キクユ人地区を中心に独立学校運動(西洋教育の良いところを残しつつ,キクユの言語や文化価値を取り入れる教育指針)や,ナイロビやモンバサを中心に,労働者運動が活発化した。1947年にはアフリカ人労働者連合が結成され,10ヶ月に渡ってストが続き,植民地政府はコントロール能力を失う。(宮本2018:482)
  • 1944年には,ケニア・アフリカ人同盟(KAU)という政治結社が設立して,立法審議会にアフリカ人指名議席が認められた。(宮本2018:482)
  • 1944年に,ジョモ・ケニヤッタKAUの委員長に就任。
  • WW2から帰還した10万人のケニア人兵士「40年の男子組」が独立に向けて秘密裏に結成されていたとされている。(宮本2018:482)

 

  1. 4)英国からの独立(マウマウの反乱-1950年から)
  • 1950年には,ますます多数の労働者と復員兵がKAUに結集した。一刻も早い政治的独立を求め,武装闘争を辞さない急進派が勢力を伸ばす。(宮本2018:483)
  • 「マウマウ」とは政治的独立を求める誓いである。1950年にはナイバシャで17名のアフリカ人が告発されたことを皮切りに,1952年には,植民地政府に忠実なアフリカ人首長が暗殺され,KAUの幹部183名が逮捕。10月には,中央州全域に非常事態宣言がされる。(宮本2018:484)
  • 「土地の奪取と白人の追放」をスローガンにゲリラ戦を起こしていく。植民地政府は,1954年にナイロビで土地自由軍支持者の大捜索を行い,2万7000人が逮捕された。各地に強制収容所村が建設され,実に107万人が収容されていた。(宮本2018:487)
  • このマウマウの反乱を指導していたデダン・キマジが1956年に逮捕され,絞首刑に処せられた。(宮本2018:488)
  • マウマウの反乱は,死者は土地自由軍だけで1万1503人であり,収容所での死亡を含めると2万人にのぼる。(宮本2018:488)
  • 1961年,KAUの委員長であったジョモ・ケニヤッタが保釈され,1963年の総選挙で彼が率いるケニア・アフリカ民族同盟(KANU)が勝利した。1963年12月12日,ケニアイギリス連邦内の自治国として独立,64年には共和制をとる。(宮本2018:487)

 

  1. 5)独立後の混乱
  • 独立を果たしたケニアは,KANUを率いるジョモ・ケニヤッタが初代大統領(任期1964―78)に就任した。このKANUは,ケニア独立運動を母体にした国民政党であり,獄中に囚われたジョモ・ケニヤッタの腹心であったギチュル(キクユ人)を総裁に,副総裁にはオディンガ(ルオ人),幹事長には労働運動の指導者でもあったトム・ボヤ(ルオ-スバ人)が就任し,その他民族集団やアジア系知識人も加わった広範な統一戦線党であった。(民族間の闘争などは,政治の項目で検討したいと思う。)(武内2000:72)
  • ケニヤッタの死後,大統領に就任したモイ(78―02)は,強力な中央集権化を進めると同時に,一党独裁体制を推し進めた。(武内2000:72)
  • 1982年には,モイ政権下において,一党国家であることを国会の場で宣言,それに応じて憲法を改正した。(駐日ケニア大使館HP)
  • 1991年には,ドナー国などからの民主化の要請を受け,複数政党制を再導入する。(津田:1993)
  • 1992年の総選挙において,モイ大統領が再選。(津田(武内編)2000:101)
  • 1997年12月にはモイが大統領として再再選。KANUは国会の222議席中の113議席を獲得。(津田(武内編)2000:101-)
  • 2002年10月,野党連合であるナショナル・レインボー・コアリション(NARC)が結成され,候補者になったムワイ・キバキが政権交代を果たし第3代大統領に就任。背景には,KANU政権下における汚職や政治腐敗があったとされる。(日本開発サービス(JDS),2015 https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/files/000074664.pdf
  • 2007年総選挙では,キバキ大統領が再選。キバキ派への集権とこれに反発するオディンガ派(オレンジ民主運動)が主な候補者となった。(日本開発サービス(JDS),2015 https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/files/000074664.pdf
  • 2007年の総選挙の開票作業を巡る混乱から,大規模な暴動・内乱状態にケニア全土が陥る。キバキの出生民族であるキクユ族と,オディンガの出生民族とルオ,ルヒア族の若者が衝突する民族対立が本格化した。結果,数千人規模で死者を出した。(日本開発サービス(JDS),2015 https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/files/000074664.pdf
  • 2008年1月には,アフリカ連合無政府状態ケニアに介入,両陣営の対談を開始。3月には暫定憲法の制定,キバキを大統領に,オディンガを首相においた。(日本開発サービス(JDS),2015 https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/files/000074664.pdf
  • 2010年には,新憲法国民投票により成立,三権分立や,国会への大統領弾劾決議権の付与など大統領への監視機能が強化された。(日本開発サービス(JDS),2015 https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/files/000074664.pdf
  • 2013年の総選挙では,初代大統領の息子であるウルフ・ケニヤッタ(キクユ族)の率いるジュビリー党が勝利,第4代大統領に就任した。同年に2010年憲法が施行された。メディアの自由と,47の地方行政府が新設され,地方分権化が進んでいる。(日本開発サービス(JDS),2015 https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/files/000074664.pdf
  • 2017年の総選挙では,ウルフ・ケニヤッタが再選した。

 

参考文献:

  • 宮本正興(2018)「新書アフリカ史(改訂新版)」講談社現代新書
  • 岡倉登志(2001)「アフリカの歴史 侵略と抵抗の軌跡」明石書店
  • バズル・デヴィドソン(1964)「アフリカ史案内」岩波新書
  • 岸陽一・武内進一・笹岡雄一編「アフリカから学ぶ」有斐閣
  • 吉川元・矢澤達宏編「世界の中のアフリカ 国家建設の歩みと国際社会」上智大学出版
  • 武内進一編「現代アフリカの紛争 歴史と主体」アジア経済研究所
  • 株式会社日本開発サービス(JDS)(2015)「平成 26 年度外務省政府開発援助海外経済協力事業「ニーズ調査ファイナル・レポートケニア共和国(農業分野、食料・食品分野、職業訓練・産業育成分野に関するニーズ調査)」」2019年5月4日アクセスhttps://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/files/000074664.pdf