テレビ報道について

重要度がます「テレビ報道」

 

世界が一丸となり、またあらゆるセクターが手を取り合って取り組まなければならない地球上での新型コロナ感染拡大。ますますマスメディアの重要性は高まっている。

 

3月6日の東京都における「外出自粛要請」、4月17日の政府による全国7都府県を対象とする「緊急事態宣言」。これらの情報は広く一般に伝えられるべきであり、その役目を担うのはマスメディアだった。また新型コロナに関連する一連の検証や客観的事実は随時発信され、誰もが情報を得られることが重要だ。

 

オンラインメディア(デジタル)の勃興は類を見ないほど進展する。が、その弊害としての個人としての情報の偏り(オンライン上の情報が溢れ、個人はAという意見を続けて検索し情報を得るため、個人として得る情報が偏ること)は常に問題視されてきた。

特に今回のような有事の際には、(比較的)公正平等で包摂的な情報発信がなされる伝統的なマスメディアへの期待は大きい。

 

図 メディア総接触時間の性年代別比較(1日あたり・週平均 2019年)東京地区

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(引用:博報堂「メディア定点調査2019」)

 

各メディアの接触時間について、図1でも示されている通り、全体を通してみるとやはりテレビが占める割合が大きい。全体の傾向として、高齢になればなるほどテレビからの情報に依存していることがわかる。

 

「テレビ報道」の違和感

 

という前置きをして、今回は新型コロナに関連したテレビ報道についての違和感を書き連ねてみたい。

前途の通り、テレビ報道はまさに、国民への公正平等な情報提供と国民の行動変容のために重要な役割を担っている。

 

有事の際の情報提供

 

国民が常に正しい(と思われる)情報を得て、自身の行動を変容させていき、新型コロナを食い止める必要がある。テレビ報道の特性は「即時性」と「公平性」で、有事の際には情報がリアリティを持って迫ってくることが重要だ。

 

私はいまのテレビ報道は、いかにも悲劇的で感情的なニュースを伝えている印象を持っている。であるから、ひとびとはリアリティを持ってその事実を受け止めていないのではないだろうか。

 

つまり「新型コロナ」はテレビの中で議論されている事柄だと感じてしまう。過剰な演出はなんだかドラマチックに見えて、深刻な状況がS F映画で、我々はポップコーンでもつまみながらただ座っているように感じている。それでは、いくら正しい情報が伝達されていても、行動が変容されることはない。有事の場合は、ごく冷淡に事実と意見のみを伝えることに注力するほうが良いのではないだろうか。

 

行動変容を伝える

 

「国民が行動変容をした場合に、それを伝えることは重要だろうか。」と考えている。駅の混雑具合やパチンコ店に並ぶ人びと、時には自宅待機で困難に直面している家族の日常生活をテレビ報道することは、かえって国民の行動変容への意識を削ぐ結果にならないだろうか。

 

いまのテレビ報道を見ると、自由に外出する「悪人」と、きちんと自宅待機し苦しむ「善人」かのように映し出されている気がする。その報道は「私も外出してもいい」とか「あんなに辛いのは嫌だ」という意見を生む可能性がある。

 

冷淡に事実を述べ、対策を伝える

 

いまテレビ報道に求められていることは、リアリティを持って事実を伝え、その対策となるアイディアや試みを伝えることにある、と思う。

 

しらいし