【めちゃ雑感】たのしい、とは。

文章をかこうとおもうのは、往々にして自分の外側で「なにか」が発生した場合であって、それは、たとえば、景気見通しの発表であったり、世界のどこかでひとが死んだり、現行の制度の変更であったりする。いまは、そうではなく自分の内側で「なにか」を発生させようとしている。そんな気分でかく文章が故、支離滅裂であったり、蛇足が多かったりするかもしれないが、許してほしい。


こんかいのテーマは、ひとの気分とかムードとかであって、楽しいと感じるとか、心地良いと感じるとか、精神的・身体的に気持ちがいいと感じる瞬間について、だ。
いまは、それらの感情をひとくくりに「たのしい」と表象したい。


ひとはどんなときに「たのしい」と感じるのか、それは「自身で設定した期待値に見合う’かえし’があったとき」だ。


ひとは、状況におうじて、ひとやものにたいして期待したり、幻滅したりする。
高級レストランで満足するのは、期待を超えた場合で、おなじひとが、ファミリーレストランでも満足するのは、期待を超えるからだ。


期待におうじて、自分自身の気分やムードが、多くの場合、変動したりする。


では、この期待値はどのように、現れるか。それは、時間とカネの投資された値である。


レストランで2000円のパスタを注文する場合、同時に、
「きっと、このパスタは2000円相当の食材を使い、それ相応のシェフが腕をふるっているだろう」と考える。これが期待だ。
カネの値で現れるときは、簡単だが、時間で現れるときは、難しい。
至極簡単にいえば、なにかのパーティーでゲストが登場するとき、ドラムロールがなり、少しの時間またされると、期待が高まる。ひとは、きっと、「またされる」と、少しばかり期待するのだろう。


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話はおおきく変わって、ひとは「なにをたのしい」と感じるのか。(さきほどまでは、どんなときに、だった。)


これは、①自分に決定権がある場合、②求めるものがほぼ確実に得られる場合、③一度「たのしい」と感じたことがある場合、④新しい「たのしいなにか」を見つける場合、だ。


街をあるいていてレストランに入り、好きなものを食べるのが、「たのしい」のは、 ①であるから。


その料理に満足して、お腹いっぱいになり「たのしい」のは、②であるから。


好きなものを注文するのは、③であって、一度でも「たのしい(この場合、美味しい、か)」と感じたから注文している。


もっとも難しいのは、④である。「たのしいなにか」を見つけるのは難しい。これはひと独りだと、難しく、3人以上だと隔たりが生まれる。なぜなら、それぞれに好みがあり、そもそも隔たりがあるためである。


きっと、これを示すのが、恋人であったり、親友であったりするはず、だ。


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「経験」は、体の動きではなく、心の動きだ。ひどく感動したり、激怒したり、寂しく泣きわめいたり、だ。それが「たのしい」と感じる能力になり、人間味を育てていく。


人生がたのしくない、と嘆くひとは、「たのしい」ことがないのではなく、それらを感じれていない。


「経験」を積極的にしていくこと、あたらしい「たのしいなにか」を求めていくこと。決して、いちど気分が良かったことを、引き続き、求めていかないこと。その試みが自分の「経験」の機会を喪失させ、「たのしいなにか」を取り逃がすことになっていることに気がつくこと。


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自身の動物化をコントロールしよう。
動物と人間の大きな違いは、「いまやっていることを、一歩立ち止まって、見直すことができるか否か」である。


いちど「たのしい」とおもった、さほど「たのしい」わけではないことに、突っ走り、転げ落ちることがないよう、自分を見つめ直すことが必要である。


しらいし