「思い込み」と「考え込み」の違いについて

昔よく議論した仲間たちと久しぶりに真剣に語り合ったので、その際に感じたことをまとめておきたい。

 

うち一人が、現代人は思い込むことができても考え込むことに苦手意識があるのではないか、と仮説を立てていた。それについて数名で議論をしたわけだが、その結論はなんとも呆気ないものだった。

つまり、思い込むとは情報源がひとつであること、考え込むことは情報源がゼロもしくは無限にあること、だ。複雑化させているのは、思い込むひとが考え込んでいると自己分析するからだ、と、早々に片付いた。

 

数十秒後には、日本の持つ比較優位性や投票所における統計学の応用などについて議論が移ったわけだが、なんとも集中できなかった。

 

まず考える内容についてだが、先方が考えるべきことをあれこれ考える、過去の無関係な仮定を考える人類がいるが、実に意味がない。そのような場合は横においておく。

 

さまざまな提言にも書いてきたが、我々は情報洪水の世の中にいる。ひとの考えや動きについてもSNSを経由して発信されるようになった。であるから「思い込み」が起こりやすく、「考え込み」が苦手になったのではないか。

 

どういうことか。世の中を旅していると、「思い込む」人類、根拠ない言論や命令を信じて疑わないひとがいる。薄っぺらいロジックに批判可能性を許さない態度は如何なものかと考えるが、ある意味で彼らがいるから世の中が回っている。

彼らの脳内では情報を一元的に処理されている。つまり、情報源がひとつしかないのではなく、それ以外を拒絶している可能性がある。

 

一方、「考え込む」人類はどうか。情報が多元的に処理され、批判を受け付ける。ロジックの全てが各々の情報源によって構成されていて、抜けがない。しかし、当然その結論は、当たり前じゃないかと思うことが多くなりがちである。学術論文を読んで結論がそんなときが多くある。

 

他方、「思い込み」も「考え込み」もしない人類もいる。妥当が否かは別として、突拍子のないアイディアが次々出てくる人類のことだ。

 

議論では「考え込む」ことが善として進んだが、そうとは思えなかった。

 

上記のように分析をしたところで、やるべきことを

思い出した。また追記しようと思う。近いうち。